歴史

山梨県山岳連盟は1948(昭和23)年12月11日に発足しました。戦後の民主化の中で、それまでの翼賛会的性格から脱皮し、「健全な登山の発展」と「国民の心身の鍛練並びに自然愛護の精神昂揚」を目的に掲げました。

結成時の加盟団体は18。地域、社会人山岳会、大学、高校山岳部でした。また連盟と日本山岳会山梨支部を一体のものと位置付け、創立総会を一緒に開き、規約も同じものでした。

戦後の混乱期とはいえ、県内では登山にも若い力があふれ、新しい山岳会が続々と誕生していました。1949(昭和24)年には、日本山岳会支部と共催で新制高校山岳部を対象にして山岳総合講座を開催。その年の初冬には、富士山を会場にした国体登山競技を主管し、最初で最後の冬山での国体を成功させました。山梨県体育祭の登山部門も受け持ち、当初の数年間は県民対象の登山を行いました。数百人規模で南アルプスや八ケ岳、奥秩父、大菩薩、御坂などに登山。県民に登山の魅力を広めるとともに、大会を通して登山の人材を育てました。

昭和30-40年代は活動の黄金期ともいえる時代で、加盟山岳会の活躍が盛んでした。山梨大山岳部が厳冬期初の南アルプス全山縦走を達成したほか、北アルプス霞沢岳、鳳凰山の沢、甲斐駒の沢と岩、八ケ岳の沢と岩、奥秩父の沢、御坂山系の沢と岩など、優れた地域研究が行われました。また台湾の玉山に中華友好登山隊も派遣しました。

昭和50年代は「かいじ国体」(昭和61年)にエネルギーを投入。組織を挙げての受け入れ準備と選手強化が続きました。10年に及ぶ努力の結果、山岳競技男女総合優勝を達成しました。しかし、この10年間、各会の山行は激減してブランクが生じてしまいました。

ブランクを埋めるべく昭和63年末から64年正月にかけて、初めての厳冬期県境リレー縦走を実施。200人以上が参加し、ポスト国体に踏み出しました。平成5年夏には、県山岳連盟としては初めてとなる本格的な海外登山隊を中国に派遣しました。青海省アムネマチン(6282メートル)に挑戦。未踏の東面主稜から日本隊第2登を果たしました。平成7年にはパキスタンのディラン(7257メートル)に偵察隊を送り、平成8年夏に本隊を派遣しました。未踏のルートから頂上を目指しましたが、あと500メートルを残して断念しました。

山梨県山岳連盟は、登山だけでなく、創立時に掲げた自然保護に深くかかわってきました。昭和37年から始まった山梨県側の「富士山をきれいにする運動」に最初から参加。昭和50年代前半には、山梨県から高山植物保護を目的にした「山岳レインジャー」業務を委託され、今日に至っています。レインジャーは毎年、延べ500人が南アルプス北部、八ケ岳、奥秩父、御坂山系に入り、保護思想の普及を図っています。

登山者受け入れ県の山岳連盟としての活動も様々行っています。遭難救助はもちろんですが、第一次登山ブームのころは新宿駅に登山指導所を開設。現在も夏の広河原で指導所を開き、安全登山を呼びかけています。中高年登山者の増加に対応して組織した中高年山岳会は、100人の会員がいて、山岳連盟の中で重要な役割を果たしています。このほか平成9年、山梨県に「山岳総合センター」の設置を提言するなど、山岳行政の確立や充実を働きかけています。