樅の木山岳会

名称 樅の木山岳会 もみのきさんがくかい
設立 昭和32年7月2l日
代表者 三枝 昌彦
会員数 男:00名 女:00名 計:現役27名 OB25名
活動内容  
集会日時  
会の紹介
私たち樅の木山岳会は、昭和20年後半から都留市の山仲間が集まって都留山友会と言う同好会が有り、甲府の丸徳組の社長で郡内出身の、秋山英二氏が加わり、樅の木山岳会として昭和32年に設立された。秋山氏は日大山岳部の出身で先鋭的な登山技術を取り入れた登山を、私たちに指導し、厳しい山行きを行っていた。
設立当初から冬山合宿は富士山と夏山合宿は南アルプスに、秋山氏のリ―ドで順調に登山技術を習得していった。昭和38年富士山の冬山合宿で滑落事故を起こし責任問題を考えて、会長制度であった山岳会を、同人組織として、代表制度とする。
初代 代表の矢部啓三氏宅に事務所を借りて、定例会を毎月10日と23日に行い、山行を重ねていた。2代 代表駒谷豊氏 3代 代表天野永吉氏の代表の時に矢部宅の工場を改造し1部屋を会の事務所として借りる事になる。
この時より会の図書、毎週の勉強会等活発な登山活動が始まる。富士山の事故以来創立時の盛況が無くなっていたが若い会員も増え、再び山行の回数も増え、会員の登山への取組も、登るだけでは無く登山に必要な知識、技術の勉強を真剣に考え、何時でも使える事務所が有ることにより、週に2度の勉強会を開催し、しばらく途切れていた山岳会の会報、タンネも暫くぶりに発行し、山岳会の歴史を残そうという動きが活発になる。
この頃郡内の山岳会の会員がが集まって登山技術の研究と、普及、技術の習得術研究会であった。アラスカのマッキンレ―登山を目指して先鋭的な登山を積み重ね、遠征計画を具体化出来たのもやはり、矢部さん宅の山岳会事務所が有ったからである。しかし、この計画は登山申請に規定が有り、隊員5人以上と医師1人が含まれなければ許可に成らず、遠征の実行には至らなかった。いずれにしても、此の事務所が山岳会に大きな発展と会員相互の親睦を図るのに多大な貢献が有った。
しかし、創立会員は年齢的に子育てと地域の役割を担う世代となり会員も世代交代の時期に来ていた。代表も4代・奥秋孝氏 5代・重森高貴氏と代わり、 5O年2月縦の木山岳会設立者で有る秋山英二氏が亡くなり、設立当時から山行きを共にしてきた仲間たちは、秋山さんの意志をついで、樅の木山岳会を盛り上げて行こうと誓い、三ツ峠枯れ葉沢の上部にレリ―フを設置する。
会員も若返り女性会員が大半をしめる会員数は此の時期が最も多く45人以上の会員を数えた、その反面在籍期間の短い会員が多く、月例山行に参加できない会員は現役会員としない等、会員制度の変更を行った。
50年 代表も6代目・三枝昌彦氏となる、登山界も海外登山の盛んな時期へと代わり、山岳会も海外登山を考えての山行形態となる。樅の木山岳会も海外登山の夢を語るメンバ―も居たが、郡内山岳技術研究会のマッキンレ―登山が出来なかった事で活動が休止状態になり、先鋭的な登山から暫くは遠ざかる。それに変わって山岳会のモット―である、山へ行きたい気持ちがあり、努力を惜しまぬ人ならば、誰でもどこへでも、倶楽部の計画した山行ならば連れて行く、この気持ちで会が運営され、新人会員は入会時から南アルプスの北岳や、冬の八ヶ岳氷瀑訓練等、一気に先輩達が5年も6年もかかってやっと行くことが出来た様な山行きが出来、幸せな時期の会員であった。
樅の木山岳会の海外登山及び個人の海外登山 主な山行
51年 マッキンレ― 三枝・井口井上・萬沢
54年 台湾・玉山 会山行 5人参加
57年 カナディアンロッキー 三枝・井口・井上
南米・アコンカグア 萩野
62年 ヨーロッパアルプス 会山行 モンブラン・マッターホルン 12人参加
H5年 中国・アムネマチン 岳連遠征 三枝・井口・井上・片井
H7年 ディラン 偵察 井口・光本
H8年 ディラン遠征 井口・臼井・中村
H9年 カナディアンロッキー 会山行
会員募集  
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